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        もんつき唄       
        歌:天草市深海町保存会一同

1.おもいだしや どやらヨ
  こころの あじき
  きなや こころの
  こころの どやらヨ
  こころの あじき
  きなや

2.こえはハラハラ
  たつこえなれどヨ
  おくしてこやた
  たたぬ おくして
  おくして サマにョ
  おくして こやた
  たたぬ

3.トンゴがよいで
  なまづめおけたョ
  なければ よかト
  トンゴなければ
  なければ 石がョ
  なければ よかト
  トンガ

3.サマのはかしょの
  マテしままつがョ
  はよけと てをま
  まねく はよけと
  はよけと はよけョ
  はよけと てをま
  まねく

  ♪♪ もんつき唄 


下馬刀島(しもまてじま)ともんつき唄の伝承

天然痘(てんねんとう)」という病気を知っていますか。痘瘡ウイルスと呼ばれるウイルスが原因の病気で、ほっておけば3人に一人の確率で亡くなってしまうという恐ろしいものです。日本でも江戸時代などにたびたび大流行し、何万人という人々が命を落としました。種痘という予防治療法が開発されたおかげで、世界中からこの病気がなくなったといわれています。しかし、江戸時代には、予防や治療の有効な手段が無く、病気が広がるのを防ぐには、患者を隔離するしか方法がありませんでした。江戸時代の後半(1830~1843)頃、深海でもこの天然痘が大流行しました。初めは、地域の裏山に小屋を作ってそこに患者を隔離していた当時の人々も、感染の爆発的な拡大を防ぐため、現在の下平地区の沖にある周囲2kmほどの小さな無人島を隔離場所と定めたのでした。これが現在の下馬刀島(しもまてしま)です。島に送られた患者たちは、自分たちで茅などで屋根を葺いた小屋に住み、水や食料が無くなると松葉を燃やしてのろしをあげ、何とか生き続けようとしました。しかし、多くの患者が病気で体力を失い、のろしをあげる元気もなく、離ればなれになった家族や恋人を思いながら亡くなっていったそうです。今でも、その当時の墓が数基残っており、悲話を今に伝えています。この他にも天然痘患者の隔離という悲しい出来事を今に伝えるものとして「もんつき唄」とよばれる労働歌があります。江戸時代頃から下馬刀島の対岸にあたる現在の深海町下平地区あたりで歌われていた歌のようです。もともと、「もんつき」とは「穀物つき」の意味で、米・麦・粟などの主食を杵でつくときに拍子をとるために歌われていたものです。のんびりと穀物を臼と杵でつくようすが思い浮かぶとても牧歌的な労働歌です。しかし、豊作を祝う歌詞の中にこんな一節があります。「さま(あなた)の墓所の馬刀島松が早うけ早うけと手をまねく」(あなたが眠っている馬刀島の松が私に早くこっちのおいでとよんでいるようだ)「つるぎ崎から身を投げましょか さまの墓までひと流れ」(つるぎ崎から身投げして死んでしまおうか そうすればあなたの眠る馬刀島のお墓まですぐ行けるのに) 本来は素朴な労働歌ですが、その中には、天然痘に翻弄された当時の人々のやるせない気持ちが託されています。

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