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東京天草郷友会百年の歩み

             第11代東京天草郷友会会長 大田至
                  
1999年(平成11年)に執筆

 
東京天草郷友会の発足は、明治の時代にさかのぼる。
 明治8年(1875年)上京した竹添進一郎(井々)と、明治30年(1897年)に上京した中井励作が中心となって、天草出身者の集いをはじめたのが、始まりである。
 郷友会の祖竹添井々は、天保13年(1842年)、大矢野島上村の医師竹添筍園の一子として生まれ、14歳の時、熊本の儒者木下韡村の門下生となり、後に細川家に仕え、また熊本の玉名で私塾を開いた。
明治8年(1875年)34歳の時上京し、勝海舟の斡旋で、清国特命全権公使森有礼の随行員となった。その後、森の口添えもあり、伊藤博文に認められ、大蔵省書記官となり、明治13年(1880年)には天津領事となった。
明治15年(1882年)には朝鮮の京城公使となり、京城事変の時は、居留民保護のため、日本軍一個中隊を指揮して防戦に努めた。
 明治28年(1895年)には、東京大学の教授となったが、天草人では初めてであり、約2年間その職にあった。小田原に閉居後、当時皇太子であった大正天皇の進講の栄に浴し、大正3年(1914年)には、天草第一号の学士院会員に推され文学博士となったが、大正6年(1917年)76歳で歿した。

 一方、中井励作は、明治12年(1879年)、手野村の豪農中井家の、四人兄弟の二男として生まれ、明治36年(1903年)東京帝国大学法学部を卒業して農商務省に入り、参事官、会計課長、文書課長などを経て、特許局長、山林局長を歴任した後、大正10年(1921年)8月には農商務省事務次官となった。さらに八幡製鉄所の初代長官となり、在任9年余の後、昭和9年(1934年)1月29日の日本製鉄創立総会で社長に就任した。勇退後は、在京天草郷友会の世話等をしていたとの文献が残されている。昭和43年(1968年)2月28日永眠した。

 竹添、中井達によって、東京天草郷友会はうぶ声をあげた。
 今日残された資料の中で最初に登場するのは、中井国臣郷友会会長時代の昭和44年5月15日発行の郷友会会報第1号に掲載された「戦前の天草郷友会」で、明治44年(1911年)、神田淡路町の「宝亭」という西洋料理屋において、中井励作や渡辺国重等が幹事を務め、郷友会が開催されたとの記録が見られるが、実際にはもっと以前から開催されていたと思われるし、中井が上京して間もなく、竹添を中心とした天草人の交流が始まったと推測される。

 天草の代議士列伝を見ると、明治23年(1890年)、国会開設と同時に天草から中央政界に進出した第一号は、大浦村出身、現有明町の小崎義明で、その後は益田陽一、中西新作、渡辺国重である。
 亀場の渡辺竜市の三男として明治4年(1871年)8月に生まれた渡辺国重は、明治45年(1912年)、国権党公認として出馬し、当選しているので、当選前後より郷友会に関与していたらしい。
その後、天草選出の代議士は、こぞって郷友会に出席していたとのことである。
 大正4年(1915年)、神田淡路町の宝亭で開かれた郷友会に、「残念ながら病気のために出席できぬ」という中井励作宛の、竹添井々からの達筆な手紙が、昭和40年代までは残っていた、との文献がある。

 大正、昭和にかけての東京天草郷友会の会長は、東京市教育局長を務めた大矢野出身の尾崎秀雄や、同じく大矢野出身の太田文雄の名が見られる。
 太田文雄は、常盤炭坑の重役を経て大倉組で活躍した剛腹な男であった。さらに新合出身の浜田金太郎や、横田章が会長となった。
 浜田金太郎は弁護士で、横田章は一町田村(現河浦町)出身、明治8年(1875年)10月生まれの陸軍経理学校長主計監(主計少将)であり、一方では在京天草出身学生の育英にも力を注ぎ、天草学生会会長に推されて、親身の世話をしていた。当時の新聞によれば、主計総監(中将)に昇進は間違いないといわれていたが、昭和18年(1943年)12月27日、68歳で惜しくも生涯を閉じた。

 「天草の五十年史」の中に、昭和5年(1930年)の天草学生会の記事があり、新入会員45名が掲載されている。また、東京天草郷友会の幹事として、久保山武雄、久保山常雄、吉川義章、吉川宗雄等の名前がわずかに記録されている。
 大正5年(1916年)に上京した河浦出身の小浦国継と、同じく6年(1917年)に上京した富岡出身の田付貞明も、この会に加わった。

 昭和初期の郷友会の集いは、一年に一回開催され、30人から50人程の会員が出席していた。
その他、天草出身の代議士が上京する機会を捕らえては郷友会が開催されていた。そしてその時の会費は、いっさい代議士の先生方の負担だったということである。
 天草選出の国会議員は、明治23年(1890年)の第一回国会より、小崎義明、益田陽一、中西新作、渡辺国重、大谷高寛、池田泰親、中野猛雄、脇山真一、宮崎高四、小見山七十五郎、中井亮作、原田雪松、園田直、吉田重延、福島譲二(前熊本県知事)、田代由起男、園田博之(現議員)で、以上の方々は全て天草より選出された歴代国会議員である。
一方、天草出身で、他の選挙区や全国区で当選した国会議員には、瀬戸山三男、勝木健司(現議員)、倉田栄喜がいる。

 昭和9年(1934年)の「みくに」紙を開くと、東京天草郷友会では、4月の総会で吉野千代吉を幹事長に推挙、幹事には太田文雄、吉川義章、吉田昇起、永田福一、桑原徹、小浦国継、阿部賢龍という記事が見られる。
 支那事変が勃発して、国情は次第に緊迫の度を増し、世相の厳しさと共に郷友会の活動も衰退していったが、細々ながら明治以来の伝統は守られ、終戦前後の空白はまぬかれないものの、やがて戦後の郷友会が、戦前の歴史を引き継ぎながら、不死鳥の如く誕生するのである。

 昭和20年(1945年)8月の終戦を境に、焦土と化した首都圏の厳しい生活の中にあっても、天草人の結び付きの芽は堅く伸びて何とはなしに集まり、初会合が開催されたのは戦後3年目の昭和23年(1948年)11月6日、場所は戦災後いち早く建てられた日本橋茅場町の小浦国継(河浦出身)宅の2階15畳の広間だった。
 翌24年(1949年)と25年(1950年)の第2回、第3回の会場も、小浦国継宅が会場となった。当時の出席者は、園田直、原田雪松の両代議士を始め、桑原徹、田付貞明、小浦国継、中村保、髭田亀男、渕井唱夫、吉田耕作、井上正規等で、天草人の良き先輩である中井励作、浜田金太郎、永田福一等も出席し、会合に一段の活気と賑わいを添えた。そして「少壮実業家、高級官吏、高級サラリーマンが集まったその会合は、文字通り談論風発、その気概は天下を呑み、散じては興趣尽きるを知らず、まことに痛快なふんいきだった」と文献も残っており、正に天草人の意気軒高たる様が偲ばれる。
 郷友会の幹事役は、終始小浦国継が担当し、渕井唱夫がこれを補佐していた。昭和29年(1954年)頃までの、永田福一会長時代は、郷友会の運営費は殆ど会長負担で、突発する諸事業費は篤志家が持ったが、終には補助会員制を設けるに至った。しかし、その苦心の政策も長続きせず、そのため、一部有志の集いになりがちだった。
 昭和25年(1950年)6月の郷友会の写真には、31名程の出席者を見ることができる。また、昭和29年(1954年)の郷友会には、熊本が産んだ偉大な政治家松野鶴平も出席している。この日の総会には、これまでの戦後最高の出席者があり、小浦国継のメモには、56名と記されていた。
 そしてこの年昭和29年(1954年)の9月には、郷友会の会員名簿300冊を作製、152人に配布している。
 終戦後の郷友会の会長は、田付貞明を初代に、永田福一、小浦国継、鶴田亀男、中野武繁、中井国臣・山田至・井上正規・赤城清・五島淺男・太田至・西功・新日出雄・岩崎八男・そして現会長の鳥羽瀬正一が戦後第15代目である。
 郷友会の主たる事業は、先ず例年春に開催される「総会と天草まつり」のイベントがあるが、近年の特筆すべき催事として、西功前会長が天草との交流を深める目的で提唱し、懸案事項であった、東京と天草市町長との交流会を、平成7年(1995年)5月に新しく就任した新日出雄会長により実現した。開催までには紆余曲折があったが、竹森要幹事長が天草市町会と綿密に調整を計り、天草町森町長、園田博之代議士、福島熊本県知事の御支援と御協力をいただき、その年の秋11月に天草2市13町の首長が参加する「東京天草文化経済交流推進委員会」(別称・東京・天草交流懇親会、委員長岩崎八男)が発足した。この会は年毎に充実して平成10年(1998年)11月にはその第4回を数えて益々盛大に開催されるに至り、今日、郷友会の年間行事の二大イベントとして定着している。
 郷友会の主たる事業の一つである会報の発行も、前述の通り中井国臣会長時代の昭和44年(1969年)5月に会報「天草」が初めて発行され、翌45年(1970年)2月の第3号まで続いたが止むなく休刊となった。
しかし、山田至会長時代の昭和49年(1974年)12月に、会報「あまくさ」が復刊第1号として発行された。以来歴代会長のもと広報部の努力により今日まで引き継がれ、平成11年(1999年)1月には第69号が発行された。
 郷友会会員名簿も、戦後は永田福一会長時代の昭和29年(1954年)と、井上正規会長時代の昭和52年(1977年)、赤城清会長時代の昭和56年(1981年)に夫々発行されているが、平成11年に新日出雄会長のもと「関東天草出身者名簿」と規模を大きくして刊行された。
 このほか郷友会では、有志により昭和40年(1965年)頃から「春秋会」後に「苓洲会」と改称された懇親会が平成元年(1989年)迄開催された。最近はゴルフ会や旅行会も開催されて、天草出身者の友好の度合いは益々深まりつつある。また関東地区の天草各地域会も続々と発足し、河浦会、高浜会、大江会、五和会、牛深会、新和会、栖本会、姫戸会、佐伊津会、天草町人会、苓北会、松島会、龍ヶ岳会、御所浦会、富津会の15地域に及び、さらに天草高校や苓明高校等の高校同窓会も年々盛大に開催されている。
 東京天草郷友会の歩みを顧みるとき、その歴史は誠に古く、明治30年代に中井励作が中心となって天草出身者の集いが始まったという。正に天草人の集いの嗜矢である。今年平成11年(1999年)の丁度百年前の記念すべき年は、明治32年(1899年)である。東京天草郷友会のみならず各市長会はこの頃発足したと見られ、このようにして既に百年に垂んとする輝かしい歴史の積み重ねがあり、その上に立って、今日確固たる地盤の基、盛大に発展し引き継がれて来た。
そしてその陰には、郷里の先達の並々ならぬご苦労があり、今日郷友会や市町会が隆盛であるのはそうした先達の努力の賜物にほかならない。
 郷友会発足104年目を迎えるに当たり、我々は郷里の後輩として、発展のため尽くしてこられた歴代の役員の方々の偉業を称え、心から感謝の意を表すると共に、21世紀の新しい時代へ向けて、先達の意志を引き継ぎ、その歴史の火を絶やすことなく、さらに和やかに、そしていよいよ盛大に発展することを願うものである。


《参考文献》熊本県の歴史(森田誠一著)、熊本の人物(鈴木喬編著〉
     新・天草学〈熊本日日新聞社〉
     近代天草百年通史「天草島の年輪」(井上重利著)
     手草の昭和選挙史(井上重利著)、天草の五十年(井上重利著)
     天草郷土史叢説(松田唯雄遺稿集)
     郷土紙「みくに」(みくに社)、東京天草郷友会会

補足・校正 元東京天草郷友会副会長 梶原嘉辰 (文中敬称略)



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